純人類

いわゆる「ヒト」のこと。種としてはHomo sapiens sapiensのみを指し、該当しないホモ・サピエンス亜種は全て亜人。
【BABEL】により2000年代日本語では「人間」と訳されるが、これは翻訳都合によるもので、「純人類」に相当する“人間”や“human”ないしホモ・サピエンス種を包括する語彙が割り当てられている。
嵌合種など地球上人口の大半を占める新種族が「人」と評されるときも、同じく翻訳都合の単語割り当てがされており、厳密には“Pezeboz”という語が当てはまる。これは純人類と船を除いた知的存在を指す語で、「人」を意味する【トゥーレッグ言語】である。
粒素への耐性が著しく低く、長時間粒素に暴露されると多臓器不全を起こす。影響の少ない【ストラスフィア・クレイドル】で厳重に保護され、遺伝子情報に変異を来さぬよう綿密な管理と人工繁殖が行われている。時折脱走して市街地に姿を現すため、近隣都市には遭遇した場合の捕獲と回収が義務付けられている。
6200年初頭から設けられた【清浄区画】では試験的に「村」を作り、少しずつ『以前のような』人間だけの自給自足生活を行うための計画が進められているが、虚弱故に繁栄は難しく、苦戦を強いられている。


 

人類の保護に関して船たちが熱心なのは、彼らの特質によるものだろう。
人類は船を作り、船を共に進み、船によって道を繋いだ。
人類は船失くして生きることができない。
しかし船は──自ら歩む力を得た船たちは、どうだろうか?
「そうあるべく」望まれているだけではないだろうか?
今や船という語が差すのは、S.H.I.P.と呼ばれるモノだ。ファージ群だ。
手漕ぎのボートでも、鉄の城でもなく、一つの「種」だ。
それらが過剰なまでに人類という種と、種が残した全てを保存したがるのは何故だ?
方舟に乗せられる数はごく一部だというのに。

──『ダッチマンズ・ノート』より一部抜粋